篠本桐生が追い求める幻影

 今日はちょっと、篠本桐生の原型について書きたいと思います。篠本桐生は、普通に言ってしまえば、「いじめられっ子」でした。ちょっとと言うか、かなり規格外のという但し書き付きですが。
 これは、このブログを読んでいる人が少ないというのを前提に書く少し狡い記述なので読み過ごしてくれると幸いです。けれど、こういう事から始まったとスタート地点を時々振り返らないと怖くなる事があります。真っ直ぐに進んでいけるのかどうか。だから、こうして文章化してみたりします。
 僕が篠本桐生になったわけ、それは拙い詩から始まりました。本当に拙い詩でした。
 僕は小学校からずっと殴られ役だったのですが、小学校の頃に起こった事は楽しみの延長だったと思います。殴る方も悪意はなく、僕自身もある程度無邪気に殴られていました。怪我もしなかったし、それは遊びだったのだと思います。これは、今になって思う事でその時は、僕自身は辛かったのだと思いますけど。
 中学生の頃は、色々ありました。色々ありすぎてどれを書こうか悩む事ですが、小説の源流を書きます。
 中学の頃、僕は授業を邪魔して詩を黒板に書きました。自習なのか覚えていませんが、とにかく自分で前に出て好き勝手にやり始めて周囲の困惑と反感を買ったのは確かでした。ただ、その時僕に何が起こったのかを覚えていません。覚えていれば小説のネタになったのにと凄く残念に思っています。ただ、その時僕は傷ついて泣いていました。泣きながら詩を書いたわけです。今思うとそれが始まりでした。
 イルカは喧嘩をしない、いじめをしないと言うのをニュースで見たので、それを書きつづっただけの拙いものでしたが、今でも覚えています。懐かしいなあ。
 馬鹿だなと思う反面、よくこんなことしたなぁと呆れながらもちょっと感心してしまう所があります。馬鹿なのは今でも変わっていませんけどね。馬鹿っていいですよ。
 ちなみに、僕はただのいじめられっ子ではありません。闘ういじめられっ子です。他人の教室に殴り込んで机蹴倒したこともあります。簡単に言えば変人です。ただ、そんな僕に出来た友達は何より大切なものです。あとは家族。残念ながら先生は嫌いですけどね。
 そして、本当に思う事があるんですが、いじめで死んじゃう人は本当に馬鹿です。気持ちが分からないわけではないし、そうしたいと思った事が僕自身あります。けれど、終わってしまっては何も出来ない。僕には小説があったし友達がいたから耐えられたと思うかも知れないのですが、そういうものを見いだせたのも生きていたからこそです。「いじめられっ子」の皆さん小説書いてみませんか?現実逃避と思われるかも知れませんが、少しでも前向きになれるのなら、と思います。
 篠本桐生は小説に真剣です。何よりも。勉強はおろそかです。